韓国語がつないでくれた、教会との出会い
前回は、石垣島での出会いが東京行きを後押ししてくれた話を書きました。今回は、東京に来て1年ほど経った頃、韓国語がきっかけで教会と出会うことになった話です。
近所の小さなカフェと、紹介された韓国料理屋さん

当時住んでいた家の近所に、女性が経営している、こじんまりとした街のカフェがありました。前回登場した方とはまた別の方で、知り合いというわけではなく、お店に通ううちに少しずつ話すようになった、という距離感でした。韓国語を勉強していた私は、そのカフェでDVDを流しておりよく韓ドラをリクエストして流してもらっていました。(まだネフリなど普及する全然前ですね〜)
そんなある時、店主の女性が「韓国語を勉強しているなら」と、近所の韓国料理屋さんを紹介してくれたんです。紹介してもらったその日のうちに、私は一人で夕食を食べに行ってみました。
韓国料理屋さんで聞いた、教会の話
そのお店は、韓国出身の女性が切り盛りしている韓国料理屋さんでした。その方はクリスチャンで、韓国語でおしゃべりをしているうちに、「教会の人の方が言葉が綺麗だから、そこで勉強したらいいよ」と勧められたんです。
本当にそれだけの、ちょっとした一言でした。
とはいえ、教会に行ったことのない私にとって、そこはなんとなく敷居の高い場所でした。「キリスト教じゃないけど、行っていいの?」と思わず聞き返すと、返ってきたのは「もちろん、誰でも来ていいよ」という、あっさりした答え。誰でも行っていいなんて、私はそれまで知りませんでした。
でも、その一言がきっかけで、私は初めて教会に足を運ぶことになります。
教会に通い始めた頃のわたし
正直に言うと、教会に通い始めた頃の私は、韓国語の勉強のつもりでしかありませんでした。イエス様が3日後に復活した、という話も、当時はうまく受け止められていなかったと思います。今思えば、信仰としてはかなり不完全な状態でした。
それでも、聖歌隊に参加させてもらったり、教会の韓国の方たちのちょっとおせっかいなくらいの温かさに触れたりする中で、居心地の良さを感じるようになっていきました。理屈で納得していたというより、なんとなく居心地がいいから通い続けていた、というのが正直なところだったと思います。
少しずつ変わっていった、自分の内側
そこで過ごす時間の中で、少しずつ自分の内側が変わっていくのを感じるようになりました。
特に大きかったのは、お金に対する価値観の変化です。何のために働き、何のために稼ぐのか。その基準が自分の中で組み替えられていきました。それと同時に、両親に対する見方も変わりました。それまで当たり前だと思っていたものを、感謝や敬意を持って見つめ直せるようになったのも、この頃からだったと思います。
正直、何がどうきっかけで変わったのか、はっきりと説明できる出来事があるわけではありません。ただ、教会に通う時間を重ねる中で、気づいたら少しずつ自分の中の何かが変わっていた、という感覚に近いです。
通い始めて半年後の受洗

教会に通い始めてから半年後くらいに、洗礼を受けました。正直、今振り返ると「信仰が完全に分かってから」受けたわけではありません。まだよく分かっていないことだらけでしたが、それでもその場に居続けたいと思える何かがあったんだと思います。
ここで、受洗のときの小話を一つ。
当時の私は、韓国語がそこまで完璧ではありませんでした。牧師先生から「イエス・キリストを信じますか?」と聞かれたとき、うまく聞き取れず、黙ってしまったんです。
すると先生が、「この人は日本人だから、日本語じゃないと答えられないですね」というようなことを言ってくださって、ちょっと申し訳ない気持ちになったのを覚えています。
もしこれから受洗する予定の方は、「はい、信じます」と答えれば大丈夫です(笑)
今振り返って思うこと
韓国語の発音を教えてもらいたい、というだけの動機で足を運んだ教会が、その後の自分の人生を大きく変えることになるとは、当時は想像もしていませんでした。信仰というものは、理屈で完全に理解してから始まるものではなく、居心地の良さや温かさに触れながら、少しずつ自分の中に根を張っていくものなのかもしれません。